『貧しき人々』を読んで

初投稿です!

 

古典を温めたいと思い、ドストエフスキーの『貧しき人々』を読みました。改めてこの本の感想を聞くなんて聞き飽きたと思っていた方もいらっしゃるとは思いますが、感じたことを書きたいと思います。 尚、今回読んだのはドストエフスキー『貧しき人々』安岡治子訳、2010、光文社です。

 

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[:あらすじ]

貧しい中年の役人マカールと貧しい少女ワルワーラの間で交わされる手紙を通して物語は進行します。わざわざ普通の暮らしをやめて貧しい暮らしをする中、マカールはワルワーラに対して貢ぎ続けますが、ワルワーラはそのことをよく思っていません。お互いが日々の手紙を通して自身の暮らしぶりについてやり取りを行い、すれ違い、交流を通して支えあいながら貧しい生活を何とか生き抜きます。やがて二人は色々な事件に直面しながら友愛を深めていきますが、ワルワーラに託されたある大きな選択を前に彼らの友情が問われます。

 

[:感想]

  • 身勝手なマカール タイトルにもあるように、スポットを当てられるのは2人の「貧しき人々」です。互いに交わされる手紙が物語を進めるのですが、自分の周りのことしか書かないマカールと彼と会って話したり相談に乗ったりしてほしいワルワーラの嚙み合わなささがとても面白いです。ある程度は日常を振り返った出来事に対してリアクションをとったりはするのですが、来てくださらないかしらとワルワーラが手紙に書いてもマカールはいかなかったり、家庭教師の仕事をしたほうがいいかしらというワルワーラの疑問は次のマカールの手紙では言及されることがありません。それにもかかわらず、マカールはワルワーラを気遣い、ワルワーラはいらないって言ってるのに!、プレゼントを手紙に添えます。主にマカールに対してですが、お前話聞けよと思ってしまいました(笑)
  • オブラートを知らないマカール 基本的にマカールは(たまにワルワーラも)口が悪いです。自分が住んでいる家の女主人に対しての悪口はまだわかります。彼自身も家賃を滞納しているので、多少ひどい扱いをされても自業自得ですし、ひどい扱いを受けたらいやにも思うでしょう。しかし、ワルワーラの使用人であるフェドーラに対しても嘘つきだの彼女を信じるなだの告げ口を行います。もちろんワルワーラは信じませんが(笑)以前同著者の『罪と罰』を読みましたが、登場人物に対する客観的な評価は低いようです。例えば、ボロボロですり切れた服を着たニキビの汚い女みたいに記述されます。

[:解釈]

  • 作品のテーマ 作品のテーマは「貧しい人」です。作中では、明日の暮らしもできないような人々が多く出てきて、すぐ病気に罹りなくなってしまいます。特に日本においてそのような生活を想像するのは難しいですが、優れた医学や技術がなければ人間なんて弱いものだというのが作品をとおしてわかると思います。この作品では、「精神的に貧しい人」と「肉体的に貧しい人」を分けて考えたほうがいいと考えています。「精神的に貧しい人」は、自分のために生きるエゴイストです。エゴイストは誰ともかかわろうとしないため貧しい、いってしまえば悲しい人です。「肉体的に貧しい人」は、満足に食べ物を手に入れることができず、衣服もボロボロの人です。主人公が直面しているのは「精神的」に貧しく「肉体的に」貧しい人のどちらが良いかという問題です。
  • マカールの貧しさ 最初マカールは「精神的に貧しい人」として描かれています。ワルワーラに出会うまで彼は特に誰にも心を開こうとしませんでした。しかし、ワルワーラの出会いによってわざわざ貧しい暮らしを選び、身銭を切ってワルワーラのために生きます。ここには強い依存がみられるのですが、ワルワーラに関心を向けているマカールは「肉体的に貧しい人」となるのを選びました(マカール偉い👏)。彼はワルワーラとの手紙を通してしっかりした「文体」を書くことができるようになったとしていますが、ここでマカールは誰かのために生きる私を確立できたという意味を込めていると私は思いました。
  • ワルワーラの貧しさ ワルワーラも「精神的に貧しい人」です。彼女のバックグランドにかかわってくるのですが、彼女は幼いころのポクロフスキーの死に立ち会って、過去の思い出に対して強いトラウマを持っています。推測の域を出ませんが、この時の経験が彼女の他人に対する不信感につながっていると思います。ワルワーラはマカールの自己犠牲的な好意を拒みます。この態度の裏には他人のために生きるという生き方に対する抵抗があるからです。ワルワーラは「精神的」な貧しさを克服できるのか、このことは実際に皆さんにも確かめてほしいところですし、「肉体的に貧しく」なってしまったワルワーラの決断から様々な解釈ができると思います。
  • 伝えたかったこと 作中出てくる町に圧倒されるという体験がこの物語の本質だし、個人的には解釈に手間取ったところです(pp.233-256)。文脈的には、周囲に馬鹿にされているワルワーラに対するマカールの手紙です。マカールはワルワーラを侮辱する人たちを否定し、街頭でオルゴールを弾く貧しい人の例をだし、見返りを求めずに人を喜ばせる人のほうが尊敬できると記します。この譬えののち2つの事例を提示し、私を含めた誰かのために生きる人と自分のために生きている人がいることを示します。その後、同じアパートに住んでいるゴルシコフに無条件でお金を貸したエピソードが出てきます。この出来事が表しているのは、マカールは決してワルワーラが好きだから貢いでいるわけではないということです。行く道にいる物乞いを無視する金持ちと施しを与える貧者のどちらかを選ぶかという問いに対して、マカールは与える選択をしたのです。

[:まとめ]

 ドストエフスキーが書いた『貧しい人々』は自分のためにも誰かのために生きる人を描いた作品です。学校で貧しい人を助けましょうと道徳的に教わったとしても、自らも貧しいのに目の前の乞食を助けることは難しいと思います。「見返りを求めない贈与」というメッセージは資本主義に馴染まない道徳の規範にも聞こえます。確かに。新たに問題提起をしてすみませんが、ドストエフスキー書簡体小説(手紙のやり取りで進む小説)という手法をとったのは、あるべき他者との関係の仕方を描きたかったからだと思います。あるべき一対一のコミュニケーションは無償の愛の受け渡しであるということをこの本は私に告げた。